2021-05-15

教育の復権・上ー学生を信頼しよう-

ロボットの石黒浩先生と「遺伝子とアンドロイド -未来は誰のもの?―」というタイトルで対談をさせてもらったことがある。と書くと、石黒先生のアンドロイドと対談したという誤解を招くかもしれんから、ロボット研究者の石黒先生と、と書かないとあきませんね。まぁ、それはよろし。

話題は本当に多岐にわたったのだが、そのうちのひとつは、人間はどれくらい知識が頭に入っていれば考えることができるか、についてであった。これまでは、十分な知識がなければ考えることなどできなかった。しかし、いまや違う。知識はかなり外付けできるようになった。グーグルが、入力し終わる前に先回りして教えてくれるように。

かつてはSF、あるいは、哲学的な命題でしかなかったような、知識の量と思考といったことを、現実的な問題として考えるべき時代になったということだ。これは、大学教育においても非常に大きな問題を投げかけている。いま大学で学んでいる若者たちは、間違いなく、いま大学で教えている教授たちとは全く違った時代を生きていくことを忘れてはならないのだから。

どの程度の知識が必要かということを決めるのは難しい。とはいえ、従来ほどは頭の中の知識量が少なくてもよくなった、ということには異論がないだろう。ただ、これは今に始まったことではない。2013年に出版された濱中淳子の『学歴の効用』において、すでに、大学時代に得た知識そのものではなく、自己学習できるかどうかがより重要であることが指摘されている。

必要なのは、いかにして膨大な情報から必要で正しい情報を得るのか。そして、そういった情報を取捨選択して考える。さらには、それを言葉にすることだ。言い換えると、知識の教育から知性の教育へのシフトが、より必要な時代になってきているということだ。

昨年開講したゼミ『学問への扉 健康と医療について考える』では、手探りでその方向をめざした。そして、予想以上の成果をあげることができた。これは、5月3日の『大学は教育だ!』で紹介したとおりだ。しかし、これには「不幸中の幸い」という面が少なからずあった。その不幸とはコロナ禍である。

受講してくれた学生たちの多くは、ゼミが終了した後のアンケートで、「役に立ったけれど、きつかった」いう感想、あるいは苦情、を書いてきた。ただし、そのおかげで素晴らしい経験ができたと、全員が書いてくれていたことは強調しておきたい。課題である論文作成には相当な自習時間を要するであろうことはわかっていた。しかし、授業時間外に、学生たちだけでzoomを用いて熱心にディスカッションを繰り返していたことは知らなかった。コロナ禍で時間の余裕があったからヘビーな要求に応えることができたけれど、そうでなければ、間違いなく不十分になっていたはずだ。

吉見俊哉の『大学は何処へ 未来への設計』(岩波新書)には、日本の大学は単位の修得が外国に比べると2~3倍も過重であることが紹介されている。いまや、知識を得ることよりも考えることがより重要になってきている時代だ。なのに、必要な単位数が多すぎて、自分で考えるための時間がないというのは由々しき問題である。知識偏重の授業がヘビーにのしかかるようなシステムは絶対に改めるべきだ。どうすればいいか。

簡単なことである。思い切って、とらなければならない単位数を減らせばいい。こう書くと、学生は怠けるからダメだと思われるかもしれない。それは、教育の仕方、あるいは、課題の与え方を工夫する、そして、適切な評価法をとれば回避できるはずだ。

学生は放っておくと勉強しない。だから、単位をたくさん課す。そうなると、学生は余裕がなくなって、通り一遍の勉強しかしなくなる。それではダメだとさらに負荷をかける。その悪循環がいまのシステムを作ってきたのではないか。それを断ち切る。

手前味噌になるが、昨年のゼミの内容は、拙著『考える、書く、伝える 生きぬくための科学的思考法』(講談社+α新書)で書籍化しているので、読んでいただければと思う。たいした工夫をした訳ではないが、学生たちは驚くほど伸びた。まずは学生を信頼すること。そして、自分の頭で考える時間を増やし、知性を鍛える教育をする。それが最重要なことではないか。わたしはそう信じている。

写真:オランダ、ではなくて、花博記念公演鶴見緑地@投稿日当日

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